前回のインタビューでは東京での音楽生活を存分に語っていただきました。
今回はその後編。
秋田での生活によって音楽との関わり方がより深くなり、そして周りをも巻き込んで大きな動きになろうとしています。
猿田さんの文化と音楽とを結びつけるイベント創りの秘密を紐解いてみようと思います。
音楽は人と人の繋がりの架け橋になる。これだけはずっと変わらず続いていく
秋田に帰省して、まずは趣味の合う友達探しから始めようと思いました。中高生時代の友達は秋田にいる人も少ないし、東京で結構どっぷり音楽に浸かっていたから話が合う人もなかなかすぐには見つからない。いろいろ出歩いていて、駅裏のたまたま通りかかったお店の前に自分の好きなレコードが積み重なっていたんですよ、無造作に。飲食店なのかなんなのかわからないままお店に入ってみたら段ボール抱えた女の人がいて。一応飲食店だったんですけど、その人とお話してみたら、夜イベントやDJやっているからおいでと。お昼が洋服屋さんで、夜イベントやるようなお店が当時あったんです。
どういう音楽が好きか話したりイベントに顔出しているうちに地元でテクノ回してるDJ紹介していただいたり、あっという間に秋田の音楽仲間が増えましたね。
その中で出会った人がこれからお店始めるんですよということで、そのお店の雰囲気を考えてDJさせてもらったり選曲したり。秋田の知り合いの動きが活発になっていった時期ですね。でも自分は普段の仕事や生活の事で段々と忙しくなってきてて、夜もあまり遊びに行けなくなってきて、その間に秋田市では知人や周りの人が新しいイベントやお店を始めて、充実したイベントやパーティーを企画をしたりしてるので、あえて自分がそこでイベントを企画する必要ももう無くなってきたなぁと思い始めて、その頃から自分の地元である男鹿のあのロケーションでやれることを考え始めていたんです。その時飛び込んでいた自分があまり望んでいない仕事とかしながら、田舎で生活する為の先の事とかを色々と考えるきっかけになっていて。そして結婚して子供が生まれて、その直後に東日本大震災が起きて。
もう自分一人の事だけではない「生活」ということを考えました。
それに自分には今暮らしてる里山の古い立派な家がある。
それを維持管理するのも容易なことではないし、それを投げ捨ててよそに住んで働くのも納得いかないし、今在る土地のこと、家のこと、子育てのこと、色々考えた結果、自宅でカフェを営もうと思いました。
それで、始めたのが『里山のカフェ ににぎ』です。
当時は農家民宿なども考えていたんですが、今はまだ無理だなって。笑
―生活、環境、自分のやるべきことが結びついた空間ということですか?
まさにそういうこと。
当時はやることが山積みで音楽からは少し離れていたんですが、ににぎのこけら落とし的な感じで初めてラウラウ・バングーラというアフリカン音楽の方のライブをやりました。自分の奥さんがアフリカン音楽をやっているので、そのつながりで。それまで自分が関わっていた今までの音楽とは少し違うのですが。笑
それから次に南米に関するイベントをやりました。お店を始めるきっかけとなったと言っても過言ではないほどお世話になっている『こおひい工房 珈音』さんの含めそのお友達(湯沢市のカフェジータさん、 他)や自分の知人とか。ウチは食べ物を提供してコーヒーと南米の音楽を楽しんでもらうようなイベントにしました。
―すでに食文化とか音楽を結びつけたイベント形態が出来上がっていたんですね、自ずと。それがワールドミュージックへの傾倒に繋がるというか。
勿論、関東に住んでいた頃も色んな音楽は聴いてたし、それまではテクノ、ジャズ、カフェミュージックが中心だったりしていたわけですが、たまたま友達の紹介で盛岡でのアイヌ音楽のイベントに行って。それがずっと気になっていたOKIさん(アイヌの民俗弦楽器のトンコリ奏者・他にはDUB AINU BAND等でも活動)のソロライブだったんですが、それがもうめちゃくちゃかっこよくて、いつか秋田でもライブやって下さいっ!て、お願いした数年後に自分達の結婚披露宴が行われた日に企画した音楽イベント(二次会のような感じです。)にOKIさんを呼んじゃったんですよ!
どうせだったら自分達の披露宴の日はやりたいことを思い切りやろう、同じくお金をかけるならなるべく地元に還元したいなと。で、近所のキャンプ場を借りきって、半分音楽イベントみたいな感じにしちゃいました・笑。
OKIさんの他には嫁さんの師匠でもあるモハメド・バングーラ(バングラケ)さんってジャンベ奏者をはじめとするアフリカンのメンバーや友達からも披露宴で演奏してもらいました。もう一回披露宴やりたいくらい。笑
それから能代でイベントオーガナイズしている感応寺の文陽くんとの出会いも大事ですね。盛岡のオーガナイザーさんが、「OKIさんのライブを聴きに、他にも秋田から来ているお坊さんがいるよ」と紹介されて。お互いワールドミュージックや民俗音楽とかが好きなんだけど当時はそういった仲間もあまりいなかったので・笑、でそこで紹介してもらって繋がって広がって。そして彼はその後にデジュリドゥ奏者のGOMAさんを彼のお寺に呼んだんですよ。あのライブも良かったですね。
―わたしは当時東京にいたのですが、なぜか秋田の知り合いみんながデジュリドゥデジュリドゥ盛り上がってるな~と思っていました、笑 その熱は届いていました。
そうでしたか、笑!そのライブには100人位のお客さんが来てたんですよ。当時思っていたのは、ワールドミュージック的な空間を考えた時にお寺はかなりいい場所だなと。日本には昔からあるもので、本来は人の集う場所、心のよりどころ。ロケーションもちょうどいい。
イベントを重ねていくうちに、後に企画させていただいた『滞空時間/Taikuh Jikang』(ガムランと影絵のパフォーマンスユニット)のライブ主催にも繋がっていきました。
別のライブの時に感応寺で始めてお会いした秋田出身の さとうじゅんこ さんとの出会いがきっかけで。
2013年の夏に開催された海フェスタ、秋田と繋がりがあったメンバーの方達、秋田舟方節。様々な要素がかみ合って初の秋田公演が実現できました。皆さんのおかげであれは本当に素晴らしい思い出になりました。
―でもそれはそれぞれにアンテナを張り巡らせていたからですね。
そうですね、そういう断片的な要素から『寺NOVA』というイベントに繋がっていきました。古い土着文化と音楽。マーケットとトークとライブ。マーケットも結びつけたのは地元の作家さん、モノづくりの人々や雑貨屋さんとお客さんとの繋がりの場になればいいなと思ったからなんです。田舎で仕事が出来れば若いモノづくりをする人達も、稼ぎがあれば定住して生活できる。そういう仕組み作りの場にしたいんです。でもハードルが高いからまずはそういう地元に根差したいいものを作る人たちやお店を紹介するイベントをと。
そして田舎で生活していかなければいけない覚悟からの焦燥感です
ね。自分だけがよくても周りがだめになっていったら、
田んぼはなくなるし、なまはげの文化もなくなる。
とりあえず自分
が出来る事は好きな音楽と様々な文化と繋げてなんとか生活してい
こうと。
寺NOVAではマタギ文化や宮古の神歌など取り上げてきましたが
次はアイヌや山伏、様々掘り下げていきたい文化があります。そういう土着文化のことを考えながら昔の人たちの生活を想像して
みると、今とは違う過酷さがある。
だから人との繋がりと娯楽が生活の中で非常に大事になってくる。
祭りだったり心のよりどころだったり。実は心のどこかで音楽が妙な方向に祀り上げられていることへの危
惧のようなものがあるんですよ。それは戦後の高度経済成長期以降
からバブルの時代、その後にも続いてきた事で、
音楽が好きな自分にも原因はあるんだろうなって。
だからそういう葛藤みたいなのも抱えたりする事もあるだろうけど
、これからも自分の活動の中には昔の文化の中にある生きていくた
めの、
生活の中で生まれた音楽やに焦点を当てていきたいなと思っていま
す。勿論、娯楽っていうのも大事だと考えていますし。
特に震災以降は音楽に対する考え方が少しずつ変わってきました。それともうひとつ、時代や環境によって様々な音楽が生まれてきましたが、音楽は人と人の繋がりの架け橋になる。これだけはずっと変わらず続いていくのだと考えてます。良くも悪くも、そういった出会いが今の自分を形成していますし、笑。